環境の部屋
【環境問題のニュースをとりあげてきたこの部屋は、これから、日常の暮らしから感じとるさまざまな事柄を私なりの視点で書いていくことにします】

21世紀は末法の世? 2007.2.24
   西暦686年のこと―持統天皇に謀反の罪をきせられて刑死した大津皇子は、大阪と奈良の境にある二上山に眠っている。
 この山は2〇〇〇年前に噴火を起こした山で、石器や石棺の材料になるサヌカイトという石がでるところだ。古墳時代の石棺は二上山から切り出されたとかで、今でも石切り場の跡が残っている。
 一月の終わり、二上山に登った。大津皇子は悲劇の皇子として1300年以上たった現代にも人気がある青年だ。だが、政争に敗れた者が放つ怨念というか負の魂にどこか惹かれてはいるが、彼のファンというわけではない。
 関心があるのは大阪と奈良を分ける山塊で、それは北から南へと連なる生駒山、信貴山、二上山、葛城山、金剛山。いちばん南の金剛山だけが1000メートルを超えるが、あとはそう高くはない。これらの山を分けて多くの道があり、峠がある。暗(くらがり)峠、十三峠、竹之内峠に水越峠とあって、長い歳月にわたって、どれほどの歴史の光や闇が峠を越えただろうと想いを馳せると、ざわざわと胸騒ぎがするのだ。
 金剛山を越えると、その奥には吉野山、大峰山、高野山があり、さらに熊野へ通じる峻険な山また山が連なっている。
 大津皇子がいる二上山は雄岳と雌岳の二つの峰があって、雌岳のほうは桜が植えられていたり、小さな茶店があったりして観光化されているようだ。馬の背といわれる尾根を辿って登りきったところが雄岳の頂上。季節がいいときには、ここも人がでるのだろうが、真冬の今はひっそりとしている。
 こんもりとした小さな墳は樹が茂っていて、木の間越しにまっすぐ南へと葛城山、金剛山の山並みが望めた。こんな山上に墓を作ったのは大伯皇女という大津皇子の姉だ。大和側からみれば、三輪山は日が昇る山で二上山は日が沈む山である。西方浄土への想いをこめる場所として、姉は弟を弔ったのだろう。
 二上山はまた古代の国道一号線である竹之内街道が通っているところでもある。
 山を下った大阪側の太子町には、昔の街道の面影が残っていて散策ができる。道というものは、もともと歩くためにできたものだということが味わえる。古の時代や人の興亡を追想し考察するには、二上山も太子町もふさわしい場所だった。
 県境を越えて和歌山に入った山の頂に高野山がある。太子町から電車を乗り継いで二時間。長年、冬に訪れてみたいと願っていたが、やっと実現した。他の季節に行く機会は何度もあったのに、どうして冬なのだろうか、単に冬の旅が好きだからなのかも知れない。
 それにしても、今年の冬は異常だ。予測よりはるかに速度を増している地球温暖化が現実のものとして現れたのがはっきりとわかる。世界の科学者たちによる「気候変動に関する政府間パネル」の作業部会が、先日、地球温暖化は、はっきりと人間活動によるものだという深刻な報告書を承認した。もはや他人事ではない、日本には火の粉がふりかからない対岸の火事でもない。日々の暮らしのなかで一人ひとりが何をどうすべきか深刻に考え実践するときがきてしまった。
 平安時代に「末法思想」というのが大流行した。これは釈迦の入定後、一万年は悟りを得る者がいなくなるというもので、平安後期におきた飢饉や水害、地震、疫病の流行などの天災、僧兵の抗争などの社会不安の危機感から生まれた思想だ。末法の世の到来に民衆は怯えた。最澄は1052年に末法に入ると、具体的に「末法灯明記」で述べている。
 1052年からそろそろ千年がたつが、2050年は地球環境を診断する一つの区切りでもある。温暖化の進み具合だけをみても、現代の末法の世に入ってしまったような気がしてならない。
 高野山の開祖である空海は最澄と同じ時代の人だが、真言密教をして最大の宗教派を確立した。今も奥の院で瞑想しているそうで、毎日二回の食事が運ばれている。その奥の院までは杉の巨木が鬱蒼と茂る2キロの参道を歩くのだが、参道脇には苔むした墓所が並んでいる。豊臣や織田信長、徳川に加賀前田、薩摩島津、伊達に浅野と歴史上に興亡した大名や現代の企業、庶民の墓がいっしょになっている。なぜか明智光秀の墓前には笊がおいてあって、お賽銭まで供えられていた。
 人気のない参道を、空海に呼び寄せられるように奥へ奥へと歩くだけだが、まるで黄泉への道をたどっているように体が軽くなってくる。生きているはずの自分は、実は死者の世にいて墓にいる者たちと同じ空気を吸っている気がしてくる。生きているのか死んでいるのか、そんなことどうでもいいようにさえ思われてくる。
これでいい季節だったら、参拝する人がぞろぞろと列をなしているだろうから、弘法大師のご利益やらなんやらが話題になって生臭い雰囲気が漂うにちがいない。
 高野山の冬をひたひたと歩くといい。きりりとした山の空気につつまれて歩くといい。21世紀が末法の世にならないように祈りながら……。
 旅から帰って、友人と高野山の話をしていて「実家が真言宗だから両親や姉の供養をしてきた」といったら、「自分は時宗だ」と、そんな話になった。身近なところで時宗の人は初めてだ。だからといって二人とも信心深いわけではない。ただ時宗というのに興味をもっていたわけで……。時宗は一遍上人を開祖とした浄土宗の一派だが、「一所不住」を原則としている。南無阿弥陀仏を唱えながら諸国を遊行して勧進し、踊り念仏でも知られている。拠点の寺を持たずに、生涯を通じて一所不住を貫いた聖は「遊行者」というのだという。行基や空也も遊行者であった。
「一所不住」は謡の鉢木に「これは一所不住の紗門にて候ふ」とでてくる言葉で、五木寛之の『風の王国』にも登場する。宗教家ではないが遊行者でありたいとはいつも思っている。       


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