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第3回―バッタンバン その1―

タイにぬける幹線道路が走るバッタンバンは、カンボジア第2の都市といわれている街だが、平原に田園風景の広がる田舎めいた街だ。
町の入り口にはいると、大きくいかめしい姿の仏像が四つ角の真ん中で迎えてくれる。一見のどかな街の様子だが、ここはポルポト勢力との最後の激戦の場だった。
仏像を振り返ってみている間に、今回の旅の目的地「若者の家」にさしかかる。通り過ぎて100メートルほど行ったところにホテルがあった。滞在中の宿泊場所だ。
荷物を部屋において、さっそく出かけていく。通りに面したこじんまりとした建物は静まり返っていた。子どもたちは学校に行っていたり、職業トレーニングに通っていたりしているからいないが、しばらくするうちに次々に帰ってきた。
若者に家で暮らしているのは、孤児であったり、ストリートチルドレンであったり、人身売買にあったりした子どもばかりだ。大人になる前にあらゆる苦労をなめつくしているのだが、出会った彼らの表情からはうかがい知れない。それほどに人なつこく生き生きとしている。ここでの生活が、そんな辛い経験を記憶から遠ざけてくれているのだろう。 夕方、近くに購入したという土地にいってみる。子どもたちは自転車を飛ばして先回りをしていた。
日本にいると豊かな土地があるからわからないが、カンボジアの土地はよくない。固くて耕すのが大変だ。ここにはやがて、子どもたちが自立できる作業所などを建設するという。畑を作るために鍬をふるう男の子たちは、汗をかいている。
暑い日差しをよけながら見学をしている日本人の女性を、彼らはどう思っているのだろうか。
国境なき子どもたちでは、毎年、「友情のレポーター」として日本の子どもたちを若者の家に派遣している。子ども同士は国や民族が異なっていても、気持ちが通じるのにそう時間はいらないが、大人は別だ。滞在している間に、お互いに心を通わせることができるのだろうか。
自分はを求めて、この国にやってきたのだろうか。答えは単純ではない。しかし、子どもたちと向き合うなかで、いつかわかりそうな気がする。
 



第4回―バッタンバン その2―

 バッタンバン若者の家の子どもたちは、学校に通ったり職業トレーニングに通ったり、大忙しだ。
子どもたちの学校見学に行った、というより親になったつもりで授業参観にいってみたのだが、教室に入ってみると若者の家の子どもの体格が他の子どもたちよりいいのだ。2年生のクラスに6年生がいるようなものなのだが、事実そのとおりで、若者の家の子どもたちの年齢が高いからなのだ。施設にくるまで学校に行けなかったわけなのだから、当然でもあるのだが、なんとなく居心地が悪そうだなと思えてならなかった。
職業トレーニングでは男の子は自動車関係、女の子は美容院、お菓子屋さん、縫製工場が多い。一日も早く自立するための実際的な選択になっている。タイとの国境の町ポイペトで美容院を開いた女の子を訪ねた。トタン板で囲ったわずか3畳ほどのスペースだが、20歳の彼女は誇らしげに仕事をしていた。
ところで、カンボジアの人口はおよそ1400万人いて、そのうち18歳未満の子どもは700万人。人口の半分は子どもたちということになるのだが、出生登録は22パーセントでしかない。これは『世界子供白書2005』による数字だが、統計に表れるのは出生登録された子どもだけなのだろうか。そうだとすると実際にはもっと数が多いことになるのだが……。
日本にいると5年に一度は国勢調査というものがあって、隅から隅まで行政単位の中に組み込まれるから人口とかも100パーセント近い正確な数字がでてくる。それが当たり前で生きていると、世界には出生登録もしない、また制度そのものもない国があるということが信じられない。
滞在している間に、自分たちが支援できる方法をみつけた。3人で話し合いを重ねて相談したわけでもなく、ほとんどがいっしょに同じことを考えていたようだ。それは子どもたちの里親になろうということだった。
日本を発つまで、いやカンボジアに着いてからも、そんなつもりは毛頭なかったのだから、我ながら驚く結論だった。私達の提案はもちろん喜んで受け止めてくれたが、全員を支援できるわけではない。私は17歳と12歳の男の子を選んだ。対面したときの彼らの驚きようは言葉では言いつくせないほど大きかった。
私が彼らに伝えたことは「金持ちの日本人が恵んでくれるとは思ってくれるな。私は貧乏な作家だが、自分の暮らしを変えるために支援する。一日300円の無駄遣いをやめて、そのお金を2人のために使う」そういったのだった。



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